8月30日
ここ最近、私にお怒りの方が多い気がする。
その「怒り」とはどちらかと言えば、「イライラ」
と言う類いのものである様に見受けられる。
いろいろと理由を考えてみる。
幾つか思い当たるが一番のそれは私が、昔程の
エネルギーを放出していないからでは無いだろうか。
しかし、私は昔から他人から「イライラ」されるくらいの
人の本質つまり「余裕」に憧れ続けて来た。
ただ、今の私は精神的にも肉体的にも思考的にも創造的にも
経済的にもその様な「余裕」を持ち合わせていない。
私に「余裕」などと言うものが備わっているのだろうか?
もしあるとしたら、銃口は他に向けておらず、自分自身
に向けねばならぬ事を知っているだけなのだが。。。
もうすこしよく考えて周りとの調和をうまく取りたいと思う。
その「怒り」とはどちらかと言えば、「イライラ」
と言う類いのものである様に見受けられる。
いろいろと理由を考えてみる。
幾つか思い当たるが一番のそれは私が、昔程の
エネルギーを放出していないからでは無いだろうか。
しかし、私は昔から他人から「イライラ」されるくらいの
人の本質つまり「余裕」に憧れ続けて来た。
ただ、今の私は精神的にも肉体的にも思考的にも創造的にも
経済的にもその様な「余裕」を持ち合わせていない。
私に「余裕」などと言うものが備わっているのだろうか?
もしあるとしたら、銃口は他に向けておらず、自分自身
に向けねばならぬ事を知っているだけなのだが。。。
もうすこしよく考えて周りとの調和をうまく取りたいと思う。
この記事へのコメント
理想郷とは自分の内にあると解っているのに、逆の方向へ走っていきますなぁ。
観念しようと思ってるんですけどね。。。
我々は少年期もしくは青年期に純粋で透き通った指紋の付いていない無垢でピュアな本質正体、それ剥き出しにして「透明」「美」と言うものに憧れ、それを追い続けて来た。しかし「山」や「旅」「芸術」「言葉」時としてその完璧に近いものに出会う度に、あれほど望んだそこでも生けれないと実感し、絶望して来た。
我々の問題は「人間」です。
それを好もうが呪おうが、やはり人間主義者である事です。これで有る限り憧れの「透明かつして美」「ありのままでいながら創造」の世界には入れないのでしょう。
友よ、今宵この一杯を飲まれれば帰られい。
明日、琴を持たれ、再び杯を上げよう。